「今日は外に出かけただけで、もう何もしたくない」
「予定をひとつ済ませたら、あとは省エネモードで過ごしたい」
そんなふうに感じる日ってありませんか?
私はまさにそんなタイプで、自分の行動量をRPGゲームの“ターン制”にたとえるなら一日に1ターンしか動けない人間です。
外出や人とのやり取りでHPをごっそり削られ、そのあとは家でルーチン作業やダラダラ過ごすのが精一杯。
そんな自分を「ダメだなぁ」と思うことも正直ありました。
しかし最近、そんな一日1ターンなライフスタイルも「べつによくね?」と思うようになりました。
活動的している人が偉いように語られる今の社会で、「一日一ターンしか動けない私」がなぜ不安を感じていたのか。
なぜ今は「それでいい」と思えるようになったのか。
この記事では、そんな私自身の体験をもとに、「一日一ターンでも全然OK!」という気持ちを込めてお話ししていきます。
「一日1ターンしか動けない」とはどういうことか

私の場合、「一日1ターンしか動けない」というのは、ざっくり言うと“外出や対人コミュニケーションなど、まとまったエネルギーを使う行動が1日に1回で限界”ということです。
たとえば、午前中に通院の予定が入っていたら、午後に買い物に出かけるのが超絶面倒。
どうにか気合いでこなすこともできなくはないけど、できれば1回で済ませたい。
2階行動できると「自分めっちゃ頑張ったやん」ってなります。
家事などのルーチン作業はそこまで苦ではなく、洗濯・掃除・料理のように家の中で自分のペースでできることなら、複数やっても問題ありません。
しかしひとたび外に出たり、あまり親しくない人と話したりすると、どっと疲れてしまって「はい今日はもう無理〜」となるわけ。
会社員時代は、その“1ターン”を会社に丸ごと持っていかれていました。
特に育休明けの復帰初日なんかは、久しぶりに複数人と会話しただけでヘトヘト。
家に帰っても家事育児をこなすのが精一杯で、自分のための時間や回復する余裕なんてほとんどなかったのを覚えています。
この「一日一ターンしか動けない」という感覚、時間がないというよりも“社会的エネルギーの消耗が激しい”という表現のほうが近いかもしれません。
体力がないというより、人間関係や社会活動に使うリソースが限られている。
だから、意識的に使いどころを選ばないと、すぐにキャパオーバーになってしまうという感じです。
なぜ「一日1ターン行動」な自分に不安になるのか?

一日1ターンしか動けない日が続くと、なんとなく不安になることがあります。
「みんなもっとたくさん予定をこなしてるのに」とか、「私ってやっぱり怠けてるのかな」なんて考えて、自己嫌悪に陥りそうになることも。
その背景には、社会に根強く残っている「忙しくしてる人=がんばってる人=偉い」みたいな空気があるのかなと思いいます。
働き方改革とかは進んできたとはいえ、やはり“バリバリ働いている人”や“予定ぎっしりの人”が評価されがちな風潮って正直まだまだありますよね。
SNSを開けば、全然知らない人の「朝からジム行って、仕事して、副業して、夜は友人とごはん」みたいな投稿が流れてきて、勝手に比べてしまうこともあります。
私は単に自分のペースで生きているだけなのに、「私は怠惰なのだろうか…」と焦る。
その焦りでさらに疲れてしまう悪循環につながるんですよね。
しかし人にはそれぞれ得意なリズムやキャパがあります。
一日3ターン動ける人もいれば、1ターンで精一杯な人もいる。それは単なる体力差や向き不向きの違いであって、必ずしも優劣ではありません。
むしろ自分のペースを正しく把握して行動してる人のほうが、なんだかんだ長期的なパフォーマンスは安定するものです。
要は、無理は続かないってこと。
大切なのは、「自分はこういうタイプなんだな」と素直に受け入れることだと思います。
社会のスピード感がしんどさを生む

そもそも、今の社会は流れるスピードが速すぎます。
情報も技術も経済が目まぐるしく変化していて、ちょっと気を抜くと「あれ?もう時代遅れ?」みたいな感覚になる。
意識して追いかけてないと、すぐに置いていかれそうな気がして、無意識に情報を取りに行ってしまう。
でもこれこそが疲労感の大きな原因でもあります。
特にSNSなんかは、気軽に見ているつもりでも、“どうでもいいこと”までバンバン飛び込んでくる。
炎上、最新トレンド、誰かの成功談、悲しいニュース……。それらすべてが「大事なこと」に見えてきて、気づけば自分の思考がかき乱され、貴重な時間も失ってしまう。
考えてみれば、人間の脳って、ここ数百年で大して進化してないんですよね。
それなのに、流れ込んでくる情報の量だけは爆発的に増えています。
処理するためのCPU(=脳のリソース)は同じなのに、渡されるタスクが100倍になってるような感じ。
嫌でもフル回転させないと処理しきれない情報量です。
そりゃ疲れるし、フル稼働が続けば壊れるよなと思います。
一日1ターンしか動けない自分を責める前に、「そもそも今の社会の仕組みって、人間の作りに合ってるの?」と疑ってみるべきです。
私たちは“怠けてる”んじゃなくて、単純に“処理が追いつかないほどのタスクを抱えてるだけ”なのかもしれません。
働き方と人生のリソース配分について考える

「一日1ターンしか動けない自分」を責めたくなる背景には、“働き方のテンプレ”の影響があるように思います。
コロナ渦でリモートワークが普及しましたが、コロナが収束した今、世界的な働き方は従来の出社主義に回帰しています。
要は「週5フルタイム勤務+出社」がまたデフォルトになりつつある。
この働き方は、一日1ターン行動の人間にはかなりしんどいわけです。
私も会社員時代は、その1ターンをまるっと“出勤して働くこと”に持っていかれて、家に帰るころにはもうエネルギー切れ。
食事などをこなすと、あとはゲームや動画を見るくらいの余力しか残っていませんでした。
しかもそこに子育てや介護が加わると、さらに厳しい。
「子どもと向き合う時間が欲しい」「ゆっくり話を聞いてあげたい」と思っても、心身ともにそんな余裕がない。
気持ちはあっても、リソースが残ってないんですよね。
余力を確保しようと時短勤務にすると収入は減るし、それで業務量が減るかと言われると実際大して減らないことも多いです。逆に労働時間が短くなたぶん、より短時間で同じ仕事をこなさないといけなくなってさらに大変になったという話もよく聞きます。
結局、状況は改善しない割に収入だけ減るみたいな地獄みたいな状況にもなることもあるわけです。
税金や社会保険料は上がる一方。最近は物価の上がり方もエグイ。
「がんばって働いても全然報われねぇな。働き損じゃねぇか」と常々思っていました。
私がフリーランスになったのは、そういう働き方に違和感を覚えたのがきっかけです。
収入は会社員時代より減ったけど、「自分でペースを選べる」「成果が自分の工夫に比例する」という感覚があって、今のほうがずっと幸福度が高いです。
何より、心と体がしんどい状態で無理して働かなくていいという安心感はかなり大きいです。
働くことは必要だけど、人生を全部そこに突っ込んでいいわけじゃない。
自分の体力や気力、家庭、趣味や大切な人たちとの時間。
そういう“人生のリソース”を、もっとバランスよく配分していいと思うんです。
「一日1ターン生き方」の価値を再評価する

私は「一日1ターンで生きる」というスタイルが好きになりました。
決して怠惰ではなく、逃げでもなく、限られたリソースを的確に使って、最大限のリターンを得る方法だと思っています。
たとえば、「今日は通院だけ」「今日は子どもとじっくり向き合う時間をとる」「記事を1本書く」といった1ターン。
それを“たった1つの行動”と見るか、“大事なものにしっかりリソースを注いだ行動”と見るかで、価値は大きく変わります。
何でもかんでも手を出して中途半端になるくらいなら、「今日はこれを達成できた」と胸を張れる1ターンに全力を注ぐほうが、よっぽど効率的で健全です。
それが「人と会う」ことでも「作業する」ことでも、時には「今日は休む」ことでも全然OK。
特に今の時代、情報はあふれ返り、油断するとやるべきことも次々に押し寄せてくる。
そんな環境で、何が本当に大切かを見極めて、それに集中する力はむしろ強さです。
一日1ターンしか動けないからこそ、自分にとって本当に必要なものにしかリソースを使わない。
これはものすごく意識的で、合理的な生き方じゃないでしょうか。
おわりに:ゆっくりでも自分のペースで生きていこう

私は「一日1ターン行動」なライフスタイルを合理的だと思えるようになりました。
些末なことがさも重要な情報であるかのように流れ込んでくる今の世の中で、自分のエネルギーときちんと向き合うことは大切な力だと私は考えています。
たくさんのことを同時にこなせなくても、「今日はこれを達成できた」「これにリソースを使った」と実感を持てるなら、それで十分。
それは立派な行動であり、自分なりの前進です。
世の中には、24時間フル稼働できる人もいれば、1ターンしか動けない人もいます。
他人のペースは別に気にしなくて良くて、長い目で見て自分が頑張れるペースを見つければいいのだと思います。
そしていつか「これなら一日何ターンでもいけちゃうわ!」と思えるような、好きなこと・得意なことに出会えたらなお最高ですね。
私は今日はこの記事を書きあげることができたので、ギアを緩めて省エネモードに入ります。
書けそうならまた記事を書くかもしれません。